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ヨガを通じた『精神的叡智の種子』への繋がり

CONNECTING TO THE SEED OF SPIRITUAL KNOWLEDGE THROUGH YOGA
心と感覚は、自らと世の中とのあらゆる関わりに通じる媒体。数多くの古文書にあるように、ヨガとは心と感覚をコントロールし、より高次の真実を体験する為の行程である。

精神性を説いた数多くのインド古文書に、人間がサンサーラ(物質世界)に執着したり、がんじがらめになったりすることへの懸念が記されています。物質世界に対する私達の誤った認識が、如何に自らをアートマン(魂)たる精神的自我から遠ざけているか、その結果として苦しみを受けているか。人生の精神的側面と物質的側面の関係性をひも解きながら、古文書はそれを示します。

 

物質世界で己の精神性を体験する為の療法として、多くの古文書がヨガを挙げています。バガヴァッドギータ、ウパニシャッド、シュリーマド・バガヴァタム等では、これに因んだエピソードの中で、私達と世の中との関わりを木を例えに語っています。その中でも、おそらく最も良く知られたエピソードは、ギータ第15章の菩提樹(Aśvattha)にまつわるものでしょう。

 

菩提樹は少し変わっています。小さな種が芽を出すと、先ずは一本の幹で成長します。その後幹から枝が生え、その枝から地上に向かって別の根(気根)を生やします。気根が大地に到達すると、今度はこの根が成長し、別の幹のようになります。これが繰り返されると、1本の木が敷地に大きく広がり、枝と幹のように成長する気根が数を増やし、あたかも小さな森のようになります。ブッダが悟りを開いた菩提樹の枝木で、紀元前300年に生えたとされるスリランカにある菩提樹は、1本で300エーカー(約1,2㎢)の敷地を覆っています。このように、大きく育った菩提樹は、複雑に構成された枝や気根によって、一見するとどれが元の木-根源-なのか見分けがつかないのです。

 

バガヴァットギータでは、”永遠不滅で終わりも始まりも無い”入り組んだものと写るサンサーラを、菩提樹として表現しています。永遠かのように見える世界は、サンサーラの終わりなき流転を経験した結果として発生し、入り組んだ枝に絡まる様なもの。絡まる程にもがき、そして枝に成る果実を欲し続けることになるのです。私達の行動は、その葉に栄養を与えることになり、結果として木はより大きく複雑に育つと、ヒンドゥー神クリシュナは言います。これは、私達が持つ外界への幻惑と執着を表しています。

 

Aśvatthaはまた、“明日無きもの”という意味を持ちます。これは暗に、私達が移ろいゆく現実に魅了されることを、諭しているのです。しかしながら私達は、この呪縛を打ち壊すことも出来ます。真理の源に向けて意識を内に切り替え、終り無く見えるサンサーラの流れを退けるために、“平静の斧で、俗世の執着という木を切り倒せ”と、ギータの中でクリシュナは説きます。

 

この隠喩話には更に深い解釈があります。私達が外界で目にし囚われる事象、それは潜在的創造力の種子が芽を出しかたちとなったものです。その種子とはつまり、私達個々の永遠なるアートマン。自らアートマンと一身となり、正しい行動の源とすれば、明晰で揺るぎない場所から自らを操作し、世と同調した行動を取ることが出来るのです。

 

ムンダカ・ウパニシャッドにもまた、物質世界を木で表現した例えがあります。ここでも木はサンサーラですが、登場するのは同じ枝にとまる永久に仲の良い2羽の鳥です。1羽は目にするものに魅了され、見える果実を食べ続けますが、もう一方の鳥は見える世界に影響されることなく、自分が存在する喜びを味わっています。私達は大抵1羽目の鳥のように行動し、見える世界の魅惑に囚われます。しかし2羽目-アートマン-の行動を目にすれば、真実を理解し平穏を見出すことが出来るというのが、この話の教えです。ギータもそうであるように、この例えも、意識を内なる至高の存在に向けるようにと教えているのです。それは決して現実世界に背を向けるということではなく、むしろアートマンの純粋さをもって世に生きよということです。この実現のためには、正しい志を伴ったヨガの実践により獲得できる、心の制御が必須となるのです。

 

このような高次な実現を得る為の心の安定と制御は、四支則(ヤマ、ニヤマ、アサナ、プラナヤマ)に従うことでのみ可能となる、とパッタビジョイス氏(グルジ)は教えていました。“ヨガとは何ですか?”という問いにグルジは、しばしばパタンジャリのヨガスートラに言及し、"心の制御(その為の行為)”と述べていました。アシュタンガヨガのメソッドはフィジカルなものに見えますが、これこそが、実践するうえでの重要なメッセージなのです。

 

ヨガスートラには、思考(=心の作用)が持つ幾つかの異なる機能が挙げられています。物事を正しく、または誤って認識すること。想像力と創造力。記憶、つまり経験することで刻まれる印象。パタンジャリはまた、深い睡眠も思考の1機能として挙げています。深い睡眠と夢がサマディの近似体験となり、その結果として得る理解によって、ヨガにおける障害に打ち勝つ事が出来ると述べています。

 

思考とはとても複雑で、信じがたくパワフルな人体機能です。その許容範囲は無限かのように見え、例えるならコンピューター。数千のドキュメントやプログラムが保存されていて、その多くは存在すらも忘れてしまいますが、機能への影響を与え続けます。その影響がパターンとなって現れ、良くも悪くも作用し、時には不適切な行動へと導き、悲しみを経験することにも成り得ます。

 

何年も前にヨガスートラを研究していた際、私は師とアヒムサ(非暴力)について議論しました。アヒムサとは、外界との尊敬を交えた関わり方を説く、道徳的規律(ヤマ)の1つです。そこで師は、このような例えを用いました;戦争とは、人々の思考の中で生み出されるもの。戦場で発生するものではない。暴力的な行動を避けるためには、暴力的なことを考えることすら避けるべきだー。師が意図するところは、人間のあらゆる行動において、その誘発は思考によって始まるということ。誤ったものの見方、混乱、或は理解の足り無さからくる様々な影響。これらから発する行動の結果は壊滅的で、自分自身のみならず他者にも大きな苦しみを与えることに繋がります。戦争がそうであるように。

 

パタンジャリは、思考が引き起こす苦難のあり方を分別するクレーシャ(苦難の種、毒)を、アヴィディア (精神的無知)、アスミター (エゴイズム)、ラーガ(欲望)、 ドゥヴェーシャ (嫌忌) 、アビニヴェーシャ (極端な死への恐れ)としています。これらは全て、最初のクレーシャである無知-自己の真性を見紛うこと-が変化したものです。

 

ムンダカに登場する1羽目の鳥のように、精神的無知は私達をサンサーラ(物質世界)が永遠であると錯覚させ、それが留まることなく変化し永遠などではないという事実から遠ざけます。2羽目の例は、無知に打ち勝ち、アートマン(魂)こそが究極の真実であり無限の喜びの源たることを知り、それにより人生の物質的側面に固執しない者を示します。

 

アシュタンガヨガの目的とは、徐々にクレーシャが及ぼす影響を減少させることです。サンサーラへの魅了が弱まるにつれ、内なる精神的叡智の光の種子に、自らの注意を向けられるようになるのです。

​翻訳者:福原健治

By Andrew Hillam

Originally published on sonima.com on December 8, 2017

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