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ヨガにおける障害 -その受容と克服

EMBRACING AND OVERCOMING OBSTACLES IN YOGA
真のヨガの道、それは変容の行程。起こりうる障害を知り、道を逸れる事なく克服し進化し続けるには

ヨガはしばしば、日々のストレス解消薬として取り上げられます。しかしながら、アシュタンガヨガの高次の目的とは、心理的・精神的な自己の変容であり、その他の実践法と同様に、その過程においては様々な障害に直面するものです。より大きな視点でそういった障害を捉えなければ、思うようにいかないことを理由に自分の練習を疑う事になります。しかし障害とは、意味があって立ちはだかるもの。変容を促進させるものであり、それが苦難からの解脱へと繋がるのです。

パタンジャリによるヨガスートラは、ヨガの本質を定義付ける3つの重要な声明から始まります。先ず最初に、「ヨガとは心の作用を制御すること」。それが成されると、第2の「真実の自己を確立すること」に達し、これが苦難からの解脱に繋がります。しかしながら、制御が出来ずにいると、逆に「心の作用に惑わされること」になります。制御なき心は外界に引き込まれ、移ろい行く物事に満足を求め、不変の幸福をもたらすことはありません。心の作用を制御し意識を内に向けることによってのみ、喜びの源たる真の自己を発見出来るのです。このスートラ第一章で語られるような完全な心の制御とは、実際には非常に希有であり、輪廻を通じた弛まぬ実践の結果に獲得出来るものとされています。

パタンジャリは続く第二章で、ヨガの境地への到達方法として、アシュタンガヨガの実践系統を説明します。アシュタンガヨガには長期且つ不断の実践が必要ですが、真摯に取り組み、立ちはだかる不可避な障害を克服出来る者は、心の制御が可能となり、真の自己を確立出来るのです。

パタンジャリが示す障害

 

ヨガスートラ第一章で心の作用の制御と統率について概要を述べた後、心をかく乱させ、意識を内へ向けることを妨げる9つの障害について、パタンジャリは列挙します。

スートラ1-30;Vyādhi(病気) styāna(無気力) saṃśaya (猜疑)pramāda (散漫)ālasya(怠慢) avirati(欲望) bhrāntidarśana(妄想) alabdhabhūmikatva(集中力の欠如) anavasthitatvāni (向上心の持続欠如)

これらの障害はcitta vikṣepāḥ、つまり心の散動を引き起こし、1方向への集中を妨げます。パタンジャリはまた、これらをantarāyāḥという言葉を用いて、ヨガの真の目的-意識が内に向かうこと-を妨げる障害として挙げています。ヨガは何年でも練習出来ますが、こういった障害の克服が伴わなければ、それは本当のヨガでは無く、ただの運動程度のものになってしまいます。

9つの障害は、ビギナーから熟練段階に至る長期間の実践に沿って、現れる順番で列挙されています。先ず最初の障害Vyādhi(病気)、これは如何なる程度の病も含みます。身体的に病んでいると、ヨガの実践に必要な集中力をうまく保つことが出来ません。ヨガの道を進むには健康に対する基本的な障害を克服せねばならず、実践を深める為にも、先ずは強く健康な生命力を培うことが必須となるのです。パッタビジョイス師は事あるごとに、健康な身体が無ければ如何なる瞑想的集中力も得る事が出来ないと言っていました。実際に、とある生徒に対して、“ヤマ、ニヤマの実践について考える以前に、先ずはアサナを十分な期間練習し身体を築きなさい”と助言しているのを聞いたことがあります。さもなければ、ヤマ、二ヤマを試みる事すら困難だからです。

次の障害styāna(無気力)とは、心理的な倦怠を指します。特にビギナーの生徒にとってはこれを克服することが困難で、早起きして日々の練習をするよりもベッドの中に留まる事を選びがちです。しかし、週に数日でも定期的に練習出来れば、それがたとえ何度かのスリアナマスカラであったとしても、身体が目覚め心身に新たな力がみなぎるのを実感できるはずです。結果として、一日を通して心が澄み渡り、練習に対する姿勢が徐々に変わり、より長時間の練習へと導く礎となるのです。

第三の障害saṃśaya (猜疑)は、ヨガの道を更に進む多くの生徒の前に現れます。ある程度の期間練習を続け、練習が自分の新たなルーティンとなり最初の高揚を体験する頃、ある種の猜疑心が湧いてくるのはよくあることで、多くの生徒に見られる普通で自然な傾向です。しかし、これは克服せねばならず、さもなければ練習する意味を見失いエネルギーを一方向に集中することが困難になります。この障害は心身の衰弱・消耗をもたらし、人生のその他の場面にも影響しやすく、長引く痛みや不快感となって身体に現れることもあります。

その他の障害と同様に、疑いも真の自己との繋がりが切れてしまう事で発生します。人生をどう進むべきか、自身のダルマ(義務、徳につながる行動)とは何か、それをどう実行するのか。それらが不明瞭になると、さまよい、ヨガにおいては練習にムラが生じ、複数の先生を行ったり来たり・・。その結果、相容れない異なる助言の数々によって更に苦難は増し、結局どこにも進めない状態に陥ります。反対に、同じ師のもとで定期的な練習を続ける者は、安定して進化を続けることになるのです。パタンジャリが提言するヨガの障害に対する解決法の1つは、正にここにあります。曰く、“Tat pratiṣedha arthaṃ ekatattva abhyāsaḥ,” -初期の障害を回避するには、1つの原理を反復せよ。これはつまり、1人の師のもとで1つの種類のヨガを練習し、心を1方向に定めよ、ということです。これを実行すると障害は現れ難く、また現れたとしても克服が容易になるのです。

パタンジャリが挙げるその他の障害も、ヨガの道を進むほどに一つまた一つと現れることになります。そんな時には、それらを自ら経験した、洞察力を持つ師が助けとなるでしょう。師と生徒が長期間に渡り実践を共にすることが、障害の克服に繋がるからです。そして障害が現れた時に心すべき最も重要な解決策があります。それはイーシュヴァラ・プラニダーナ。つまり、イーシュヴァラ(神)を心に抱くことです。パタンジャリはイーシュヴァラを、いかなるカルマ(業)にも染められていない、全智の種子を備える至上の魂であり最も崇高な存在、と述べています。無宗派的に説明すれば、“心を委ねる対象であり、自己の精神にその存在を感じる、全智の源たる高次な力への気付き”といったところでしょう。ヨガの実践に取り組み努力を積み重ねると、そのような高次の存在を垣間見ることがよくあります。最初は何故だかわからなくても、練習をより深めたいと思わせる何かを感じたり、進歩への確固たる集中やエネルギーを解放させ、選ばれた道に信念を抱く、そのような体験です。パタンジャリは、イーシュヴァラ・プラニダーナを実践すれば、ゴールはもはや近い、と説きます。それこそが、知識の域を超えて、より鋭い集中とヨガの実践へのより深い理解を授ける、イーシュヴァラ・プラニダーナの叡智なのです。

​翻訳者:福原健治

By Andrew Hillam

Originally published on sonima.com on April 16, 2018

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