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グル・プルニマを祝う意味とは

WHAT IT MEANS TO CELEBRATE GURU PURNIMA
その聖なるヨガの伝統と、変容への助けを授ける師の存在ついて学ぶ
 

グル・プルニマとは、生徒や精神世界を模索する者が、各々のグル(師)への尊敬を表す日です。ヨガにおいてグルとは、生徒を真実の叡智へと導く責任を担う者。グル・プルニマは、常にヒンズー暦のĀṣāḍha-月齢によって6月か7月-の満月の日に設けられます。これはヴィヤサ・プルニマとしても知られ、マハーバーラタを文字に記しヴェーダ古典を編纂した、インドで最も重要なグルである古代の聖者ヴェーダ・ヴィヤサを祀る日とされています。そして1915年のグル・プルニマの日、もう一人の偉大なグルが生誕したことは偶然ではないでしょう。アシュタンガ・ヨガの創始者、シュリKパッタビジョイス師です。

 

数千という生徒のグルであり、愛情を込めて“グルジ”として知られたジョイス師は、インドと世界における当時のヨガの実践に大きなインパクトを与えました。そして師が残した遺産は、現代のヨガにも変化を与え続けています。

南インドの小さな村での慎ましやかな創始期から、師は人生をかけて懸命に学びを深め、アシュタンガヨガ・メソッドを広げていったのです。偉大なるヨガマスター、クリシュナマチャリア師の敬虔な生徒として30年以上を過ごし、グルジは練習、研究、信じ難い献身を通じて変容していきました。師の尽きる事無きエネルギーと情熱が、師の内側から光り輝いたのです。

 

グルジが2009年に無くなった後も、グルジの家族が変わらずアシュタンガヨガ・メソッドを広め続けています。長きに渡ってグルジ、孫であるシャラート、そしてジョイス一族に献身的に師事した世界中の多くの生徒達も、教える立場を授けられました。グルジとシャラート両名に師事する生徒として、多くの人々がラマモハン・ブラフマチャリ-クリシュナマチャリア-パタッビ・ジョイス-シャラート・ジョイスへと受け継がれるパランパラの系譜の一部となっています。このパランパラに息づく途切れることのない教えの連鎖は、21世紀においてもヨガの教えを強固なものとしています。教えが受け継がれる中、過去と現在で多少の違いがあるように見えるかもしれませんが、より深い理解を持つ人々は、ヨガに内包されるメソッドとエッセンスには何も変わりがないことが分かるでしょう。

 

グルジはパランパラに従う重要性、教えに真摯であること、そして何より、練習を弛まず継続することを強調していました。グルジは、伝統の系譜に沿わない者や、ヨガの実践法に対する正しい理解や哲学を持ち合わせない者が教える側に立つことを大変心配していたからです。これは特に、ヨガが急速に広まり、短期間の経験で教え始める者が多い西洋に該当します。ヨガが目新しく虜になり、その情熱を他者と共有したいという熱意だけでは、教えに対する理解不足を補う事は出来ません。
 

 

パランパラを重んじる

グル・プルニマの吉日にパッタビ・ジョイス師の人生を思うとき、正当系譜(パランパラ)のグルに師事する重要性についても考察すべきでしょう。パランパラに従いグルから直接学ぶことは、ヨガへの真の理解を得る為に非常に大切であることは疑いようがありません。一人の師と次代の師との直接的な繋がりによって、幾世紀に渡って蓄積された知識が引き継がれるからです。それは書物からは享受しようもない叡智。ヨガの叡智とは、変化無く永続する経験に基づいたもので、いかなる時代や状況にも左右されないのです。その叡智自体が生命であり、人を介さずして生きてはいけません。パランパラが壊れてしまえば、叡智もそこで死んでしまいます。本当の師や先生は、ヨガ哲学とその科学について理解し、グルの指導のもとでの献身的で長年に渡る練習により得られる恩恵について、自らが経験している必要があります。その行程こそが、数値では計れない自己変容を可能とするからです。

 

ヨガが示す行程を理解するには、深い洞察力と明晰さが必要であり、生徒を正しい道へと導くグルの存在がそこに無ければ、まやかしと真実、非永久と永久を簡単に間違えてしまいます。これは特に、経験の浅い生徒に顕著です。生徒は、グルとパランパラへの深い愛と尊敬の念を持ち、長年を費やして教えを授かり実践することがとても重要です。そういった姿勢が生徒と師の間にあり大切にされていれば、内的繋がりが生まれ、ヨガの叡智が成長し育まれるのです。おそらくこれこそが、パランパラの系譜にいる者達が毎朝の練習/学びの前に偉大なグルの名をチャンティングし、祈りに込める理由なのでしょう。
 

 

グルの足埃 

インドでは、グルの足に手で触れ、指を眼にかざすという儀礼があります。これは、叡智へと向かう旅によって、グルの足が埃をまとっていることを表現しています。そのような旅を経たグルは、真の叡智を携え、またそれを与えることが出来ます。埃は生徒を開眼させ、生徒自身の中にある叡智の光を示すのです。

 

アシュタンガヨガのオープニング・マントラは、“Vande gurūṇāṃ caraṇāravinde”という一節から始まり、これは”至高のグル、その蓮華の御足にひれ伏し祈ります”という意味です。ここで理解すべきは、グルの足そのものに単に傅くということではなく、足はグルが持つ叡智を表しているということ。グルとは叡智を渡す船のような存在で、幾年の実践と学びにより己のエゴや、”私”、”私の物”という意識を超越していて、叡智を汚すことなく伝えられる者。もしパッタビ・ジョイス師が、自らの教えについて問われれば、”これは私のヨガではなく、パタンジャリのヨガ。私はそれをグルから学んだのだ。”と答えるでしょう。

 

私がグルジと関わる中で思ったのは、グルジは自身-己-について語ることに興味は無く、周囲の雑音に影響されない方だったということです。グルジは、自らの叡智により生徒を導くことのみに興味を持っているようで、彼こそ正に、数千の生徒にとっての真のグルでした。グルジ亡き後、孫であるシャラート・ジョイスが祖父のものと違わぬ教えの質と内容を受け継いで、それを継続しています。このグルジとシャラートの例の中に、パランパラの道筋と、グルから弟子への叡智の伝道について明確に見いだすことが出来ます。祖父に20年師事し、その傍らで指導することで、シャラートもまたグルとなり、祖父から受け継いだ叡智を以て数千の生徒を導いています。

 

 

Śrī Gurubhyo Namāḥ!

このグル・プルニマが、我々とYoga Vidya(ヨガの叡智)との繋がりを強め、グルから最良の祝福と叡智を授けられますように!

 

​翻訳者:福原健治

By Andrew Hillam

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